valuable


11/18(土)
庵庵…鴨居〜東神奈川〜日暮里〜(スカイライナー5号)〜成田空港
/(CX501)/香港国際空港/(RA410)/Tribhuvan国際空港
−The Bakerly Cafe−Benchen Phuntshok Dargyeling Guest House

11/19(日)
BPD GH…Benchen Monastery…Swayanmbhunath…BPD GH
−トリブヴァン空港/(OY-CHT)/Pokhara空港−Mum's Garden Resort
…レイクサイド散策…MGR

11/20(月)
MGR−Sarangkot−MGR…レストラン…Nabil Bank
≡Pokhara Tourist Service Center・Nepal Tourism Board…MGR

11/21(火)
MGR−NTB(Japan in Nepal 2006 Pokhara Stage)−MGR

11/22(水)
MGR−Pokhara空港・Restaurant≡MGR…古都…MGR

11/23(木)
MGR…Phewa Lakeside Park…MGR−スーパー−(Prithivi Raj Path)
−Bottom Station・Manakamana Cafe#マナカマナ山頂駅
…Manakamana寺院…山頂駅♯Bottom Station−カトマンズ市街地
−BPD GH≡Tapan≡BPD GH

11/24(金)
BPD GH…市街地≡Royal Nepal Academy(王立劇場)…The Bakerly Cafe
…RNA≡Crowne Plaza≡BPD GH

11/25(土)
BPD GH…周辺散策…BPD GH−RNA(Japan in Neal 2006 Kathmandu Stage)
≡Utse Hotel−BPD GH−トリブヴァン国際空港/(RA411)/

11/26(日)
/上海浦東空港/関西国際空港…周辺散策…KIX/(NH998)/羽田空港
〜京急蒲田〜仲木戸…東神奈川〜鴨居…庵庵

−:ツアーのチャーター車、≡:的士、〜:電車、/:航空機、
#:ロープウェイ

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不定期連載 台道・陸道をゆく 話数知らず
06/11/18~ ネパール Pokhara、Kathmandu
【valuable】
ネパールダンスをはじめて2年目を迎えた。2年目ながら、日ネ国交樹立50周年という記念すべき年にネパールに関われたのは最早運命以外の何ものでもなかった。夏季休暇を惜しんでは海外出張に充当するなどして11月末の休暇獲得を何とか工面できた。激動の1年であった。その激動性を此処に改めて示そうとは言わない。否、本記の節々にそれを垣間見ることは必至であろう。そして、出発直前の1週間も激動であり、体力確保すらままならなかった。激動性も吐露してしまうこと、それは自分の貧弱性を暴露してしまうことである。表向きは泰然自若たれ。然し自分は弱い。そんな中で普段見慣れない人の強さを見て感動し、また自分らしさを発掘するのが三木清の言わんとする旅ではなかったか。
結局、出発前の1週間を記述せねばならなかった。新規取扱製品だが、既にアントニオ以外のメンバーでチームは動いていた。そして、技術トレーニングの運びとなり、もう1人のエンジニアのサポート担当的役割を担うべく立ち上がった。トレーニング前週の金曜日に軽い打ち合わせと接待があった。上司からはその取引先の方へ、人となりを色々と紹介して頂いたが、既に会社には割れてしまっている、アントニオの多趣味嗜好が話題になってしまった。老後の心配はない。否、今の心配はどうなんだ?このような場面で、会社への貢献振りで話題が覆い尽くされるくらい周囲から信頼を得られるように、今後も精進が必要である。
さて、会社の方針とは言え、同時に2つの製品担当となり、同時期に各仕入先の要人が来日することも今後は茶飯事となろうか。月曜にトレーニングをして頂いているS社講師を馴染みの寿司屋に招聘すると、4人程見慣れたグループが店内に入って来るではないか。そのもう1つの担当のU社グループである。うむ。この寿司屋の存在を社内に知らしめたのは自分なのだが、お陰で各種接待で店は繁盛しているようである。然し、この寿司屋でバッティングするとは、想定外であった。日中はS社トレーニングに従事できたが朝晩はU社メール対応が続く。U社も、世話になったシンガポール在籍のエンジニアが、9月にアントニオが訪問したフランスオフィスに戻り、今後の来日は恐らくなかろうとのことで最後の晩餐の機も訪れた。金曜にはそのS社の日本重要顧客の接待も予定されていた。苦渋の判断の中、双方を断った。九重否、苦渋から引き摺っているあれである。だが、運命は悪戯にもこの一筋の微かな光明も夕方には潰えさせてしまい、結局金曜の晩はU社関係のトラブル再現試験に導くしかなかったのである。アントニオが出席できたかも知れない酒宴が2つ、否、3つであろうか、夫々が華やかに進行している最中、独りサーバの前に苦虫を噛み潰していた。このようなタイミングに限って、以前は容易に再現できた問題が発生しないのである。親善大使を気取ろうが、明日からの活動は会社としては休暇に他ならない。出来る限りのことを熟してから此処を去ろう。何時か迎えられるであろう夜明けに期待しながら。結局夜食も食い損ね、23時近くに行き付けの居酒屋に寄り、説明し切れない今週の出来事を反芻し、また明日からも激動の予感を念じながら一杯飲んだ。
11/18(土)
渋谷停車の成田Expressへの接続も悪くはなかったが、料金の都合で日暮里乗換えのスカイライナーに分があった。スカイライナー5号の隣席の若者は、朝も早よから任天堂だかのテレビゲームに明け暮れていた。足元にはスーツケースである。彼は本当に海外へ行くことを楽しみにしているのだろうか。テレビゲームがそんなに面白いのか。氏の好みまでは踏み込みたくはないが、隣席でピコピコやられては気持ちが安らぐことはなかった。
成田に到着した。集合時刻まで時間がないため、仕方なくマクドナルドに寄って軽く腹拵えを済ます。団体カウンターで同行者と落ち合い、やがてCX501便の人となった。香港行きは今年3回目である。香港にアジア統括部のある会社製品の担当を今夏に外れたため、もう暫く渡香の機はなかろうと思っていた。前回のフランス出張時は往復ともビジネスシートに凭れることができたため、エコノミーシートの狭さを痛感した。身動きが取れない。ううむ。さて、機内でデジカメの準備をして気がついた。timezone指定ができる仕様だ。だが、ネパール標準時と言う設定項目は見当たらなかった。GMT+545。このtimezone設定が可能になれば、このデジカメは何台多く売れるのだろうか。。。以前の2度共に香港到着は22時を過ぎていたが、今回は昼間である。何時もとの違いに戸惑いながら空港を歩くと、SARS検査のためか、温度センサーが設置されており、帽子好きな知人は脱ぐように指示されていた。思いの外香港トランジットは時間が掛からず、暇を持て余した。香港$を持参すべきだったか。2時間後、RA410便の人となった。RA410便の右手車窓にディズニーランドが見渡せたのである。と言うことは、少々無駄な運航を強いられているように思う。日本などの東から来る便は一旦西側を巡ってから着陸し、ネパールなど西へ行く便も、一旦東へ向かってから急旋回するのである。お上の指令か何かで、離発着時には北京方向に航空機の尻を向けるのはご法度なのだろうか。B757のガタガタの壁にはネパールの町並みとヒマラヤの風景画が描かれているが、所々汚れており、またリクライニングシートは軒並み草臥れて倒れすらしない。前方にスクリーンもなければライフジャケット装着方法のレクチャーもなし。機内誌で運航スケジュールをチェックすると、どうも国際線は2機体で自転車操業を繰り返していると見られた。予備機は存在するのだろうか。このスケジュール表に拠れば、土曜のKIX行きの便も同じ機体のお世話になるようだ。まあ良い、墜落さえしなければ。唯一唸らされたのは晩飯メニューに肉料理、魚料理の他にベジタリアン向けのものを用意していた点である。昨年、インドからのベジタリアンの来日を受けたが、渋谷のホテルのロビー脇の喫茶コーナーで注文し掛けたサンドイッチ、3種どの選択肢を採っても魚や肉のペーストが混ざらない組み合わせは存在せず、結局氏は抹茶ケーキを食べる羽目になったことを思い出す。隣席のツアー主催者有子さんも、ツアー中の各イベントの調整に明け暮れて徹夜だったらしい。運命なのだろう。否、氏は人事を尽くしたと言えよう。金曜22時半過ぎまでテストしたが問題を再現できなかったアントニオは果たして人事を尽くしたと言えるのか、ミャンマー上空で悩んでしまった。少々気が重い中、風邪を引いて咳払いの続く氏にしてあげられることは、喉飴と、会社同僚から掻き集めた風邪薬を渡すくらいしかなかった。観光も一部組み込まれているが、ツアーのメインイベントはダンス披露である。会場を盛り上げるのがアントニオの使命である。
西へ進みに進めども、Kathmanduの20時はどっぷり陽も暮れていた。Kathmanduでのビザ申請カウンター付近は粗方予想通りの雰囲気と筋書き通りの事の運びであった。中国系人の横入りは間髪を入れず、此方も大人しくしていてはいけないのだ。航空機移動は体を余り動かさない割には疲労が溜まるものだ。機内では一定の気温気圧湿度に保たれているが、人間が裸の身で到達不可能な高度に達し、人間が生身では成し得ない高速移動の慣行には、体が幾許かの拒絶反応を示し続けていたのであろう。出口付近は客引きが激しい。油断していると、勝手に荷物を運ばれてしまって運び賃をせびられてしまう。「車?」「予約あり?」などの日本語も激しく飛び交っていた。そんな中、今回の現地ツアーコンダクター、Pokharaでホテルを営む宮本ちか子さん等の歓待を受け、大型1BOX車に乗って空港を発った。夜とは言え市街地の交通量は予想を超えていた。市街地内のチェーン店TheBakerly Cafeの一店に腰を下ろし、遅めの夕食を摂る。水牛のモモ、水牛の辛ジャーキー、野菜の天麩羅、酢鶏、、、どれもこれも辛過ぎたがネパール食の登竜門と言えよう。ウェイターの振りを見て気がつかない可能性もあるが、聾唖者を雇っている店として海外には名の知れた店のようである。食後、また車に揺られて十数分、少々高台を登ったのだろうか、寺門に到着した。寺内の寄宿舎の様だ。幾重の階段を昇り、寄宿棟に至る。すぐ横になった。
11/19(日)

翌朝、高僧の誕生日会が催されると言う。早めに朝食を摂り、聖堂内に入る。幼児くらいの丁稚から大人僧までがずらりと並ぶ。最下手側に僧侶外者向け絨毯が敷かれていた。銅鑼と喇叭を合図にお経の重唱が始まった。小僧はそれでもはしゃぎ捲くる。聖堂内に響くお経。経典のアンチョコも配られた。誕生日向けのお経なのだろうか。英訳としては何となしに「仏の祝福のあらんことを」的な大乗思想伝の様に感じたのだが。バター茶とカシューナッツと干し葡萄入りバターライスが各人に配られた。所謂お神酒、否、仏だから仏酒、なんてものがあるのか、それに赤飯の組み合わせのネパール仏教版なのだろう。とても脂っこい。だが、朝8時とは言え宴席だ。マータイ氏の伝道より早くからと自負しているのだが、 独り暮らしを始めてから勿体無い魂の宿り続けたアントニオが一度与えられた膳上の食べ物を残す訳にもいかない。やがてこの宴食は、「赤飯が炊ける」と言う朗報状況から無限遠の彼方に我が体腸を運び去るとは、露にも思わなかったのである。

聖堂での式典後、広場では獅子舞と曲芸の披露が始まった。曲芸の曲は矢張り銅鑼と喇叭に拠るものだ。獅子舞の縫い包み、とても暑かろう。足側を任されている子供が哀れである。演目終了時にはダウンしてしまった程だ。これも修行の1つなのだろうか。昨年町田公演時のラーヴァナ役のアントニオは、お面の中で汗を大量に噴出していたことを思い出さずにはいられなかった。




一通りの式典後、若い僧にスワヤンブナートを案内して貰った。寺から徒歩15分、思えば適当な宿位置である。沿道には犬も多い。先日、狂犬病で日本人に死者が出たが、1970年にネパールに旅行した者以来との談話であった。それにしても犬、多い、、、チャボも猿も牛も皆平等。ネパールの街の風景に欠かせない登場動物なのだ。堂の至る所に彫られた仏像の数も数え切れないが、観光客数も尋常ではなかった。人込みの苦手なアントニオは辟易とさせられた。車も日本の1970、80年代ものが多い。排ガスも凄まじい。此処を生き抜くには力強さが必要だ。舗装路も一応縦横無尽に走っているが、陥没箇所の数は計り知れず、車のクッションもガタがきている。力強さ、か。道は狭いが信号もなく、人、自転車、バイク、バスの往来は忙しない。町中に響くクラクション。其処退け其処退けオイラが通る。強かでないと目的地に辿り着けない。欲しい物は手に入らない。駐禁もクソもない。車を停めれば都だ。後方からのクラクションは我々の行進曲なのだ。昼食は美味なナンとカレーをいただいた。グリーンカレー、ベジタブルカレーと鶏肉カレーにダルスープまである。未だネパール食の真髄には辿り着けていないのかもしれないが、美味なものには敵わない。
食後移動してトリブヴァン空港の国内線乗り場に到着。国際線乗り場と異なり、機器と言ったものが殆どない。Gorka Air、Cosmic Air、Budda Air、Royal Nepal Airline、Sita Air、Agni Air、YetiAirと、夫々の社の経営が成り立つのだろうかと訝しかしい程の航空会社の賑わいである。受託手荷物の重量計測には所謂ばね量りが健在だ。セキュリティチェックは係員による身体検査である。 滑走路周辺をうろついているのは、1機の定員が20人程のプロペラ機ばかりである。30分遅れなぞザラだ。14時30分発Yeti AirのPokhara便は3便も予定されているようだが、辛うじて我々の乗るチャーター便が定刻より30分程遅れて残りの2機より先に空港を発った。進行方向右側はヒマラヤ側で、空港建物から搭乗口へ向かうバスから下車した客が一目散に押し寄せて一瞬で席が埋まってしまったが、何とか左側先頭席を確保した。コクピットが丸見えである。コクピットと客席を仕切る扉などが存在しないのだ。天候は今一つ、ヒマラヤは見えないが、コクピット齧り付きシート着席は予想外であった。約200km、新幹線なら1時間少々、東名高速も飛ばせば2時間を切れそうな距離に、整備された陸路の存在を期待してはいけない。バス便は1日掛かりなのだ。空路には相応の運賃が要求されるが、必要な交通手段なのだ。コクピットの時計はGMT表示である。オイルの臭いのきつさを30分程我慢して無事Pokharaの空港に着いた。
1BOX車に揺られ、モノの数分で宿に辿り着いた。Mum's Garden Resortは南国のリゾートペンションを彷彿とさせ、精神の回転速度を思わず緩めざるを得なかった。17時30分からこのホテル入口の広間でダンスの練習を控え、夕方の散策を嗜む。トピ、テーブルクロス等のネパール手芸品、登山用品、仏教グッズに宝石店とレストラン、時折インターネットブースと両替商の繰り返しであった。カメラバッグを提げた我々は日本人と見られるのか、日本語で話し掛けられることも一度だけではなかった。乾季でヒマールの山脈群は抜群の背景を成す筈のこの時期に、異常気象の波は文明・文化の壁を知らず襲撃している模様で、小雨すらぱらついて来た。 そんな中、目の前でバイクのスリップ事故が発生した。2人乗りの若者は何れもサンダル履きだが大事には至らずに済んだのが幸いであった。雨で滑り易いのは当然だが、、、バイクのタイヤには既に溝がなかった。水が溜れば道は一瞬にして彼等のスケートリンクと化す。Phewa湖でボートを漕ごうが、この天気では山も見えなければ日も暮れつつあるため、大人しく宿に戻った。Pokhara在住日本人が数人来ており、一緒にダンスの練習をした。日本在住人は玉川学園前に赴きさえすれば四六時中とはいかないものの、監督に直接指導を受けられるのだが、此処の方々はビデオを頼るしかないのである。その不自由さの中、此方の方々のダンス習熟度は高く、畏れ入った次第だ。その集中力は我々が文明の中で何時しか封印して来てしまったことなのであろう。夜は宿でダルバートを頂いた。きっと、安らぎの空間に弛緩し過ぎてしまっていたのだろう。

11/20(月)


朝は特に寒くもなく、朝食も問題なく喉を通った。今日はハイキングとは言え、車で高台までの移動だけであった。高台に至るまで至る所に棚田が目に付き、何も周りにない場所に学校も点在していた。途上で見たスクールバスも20は越えていた筈だ。20分程車に揺られ、サランコットの高台に到着した。雲の多めの中、アンナプルナ サウス、アンナプルナI峰、マチャプチャレ、アンナプルナII峰、アンナプルナIV峰、アンナプルナIII峰が時折顔を覗かせてくれたのが有り難い。そんな中、マチャプチャレの三角錐壁は異彩を放ち、山屋のアントニオを震撼させて止まなかった。我等が三角錐と言えば甲斐駒なのだが、 身長は4000mも高い6993mなのである。ヒマールのピラミッド、マチャプチャレ。大空の頭、サガルマータには標高では全く及ばないものの、このマチャプチャレの壁度と天空への近さの前に発する言葉を失っていた。そなたは何年そこに居るのか。三角錐のみが只空に顔を出している様相は、丸で天空から三角頭巾の幽霊が降臨している図式だ。だが、マチャプチャレにも異常気象なのか、その頭巾は未だ白くなり切ってはいなかった。

高台周辺には幾つかの露店が並んでいた。1軒、日本語も飛び出す編み物女工の店で、織物とアンモナイト化石の品定めをしている最中、美しいグルン族民謡を生で聴くことができた。車を降りてすぐの高台なのだが、普段の体力なら徒歩30分の更に上の展望台まで赴いていたことだろう。何時しか体中にだるさを覚えていた。同行者の土産物色に付き合う体力がない。
車で下山後、レイクサイド方面へ歩き、両替のための銀行行きがてらに、Phewa湖岸にブーゲンビリアの美しいレストランに寄った。食欲は激減し、カレー系のメニューには触手が全く沸かず、何とはなしにラザニアを注文した。然し、半分と食えなかった。アントニオ、失格である。銀行の待ち時間もかったるい。待ち時間の間に運良くレートが少々向上し、高々6Rsだがレート表換算より多く換金することができた。然し、現在の気分的には金より体力であった。銀行付近で拾った70年代もののカローラのタクシーに、運ちゃんも含めて7乗し、明日本番の会場へ送って貰った。NepalTourism Boardは停電中であった。明日は大丈夫なのか。電気の心配より我が体力だ。何のためにネパールに来たのか。宿に戻り、今夕のダンス練習は割愛させて貰ってベッドで寝ていた。練習後、一行は日本食レストランに赴く話もあったようだが、宿でおかゆを頼めたため、大人しく部屋で体力温存に努めることにした。38度の発熱なんて体験は、10年以上は忘れていた。
11/21(火)


夜中に何度も起きてトイレに行き、熱を出し切ったように感じた。ネパールに来てから驚く程の寒い朝を感じなかったのだが、今朝は悪寒のようである。腸に響いた風邪だったのか。朝食もおかゆを嗜んだが、少々食欲が戻って来たように感じた。NTBに向けて出発する10時半迄また休養に余念はなかった。監督は昨晩も、夜中でも何かあったら叩き起こしていいからと気を遣ってくれたし、今日のダンスのメニューも当初予定されていた激振りものクッタマ・ニルパレ・パルラを断念し、ワンランク下のタマン・セロだったら少しは楽なのではないかとそれ向けの新たな衣装を調達して貰ったりと心配をかけっ放しであった。 だが、会場脇食堂での昼食の準備も覚束ない中、リハーサルが進むに連れ、体を動かす毎にアントニオの体調は回復ヘの一途であった。人間は踊るように出来ている、と悟った瞬間であった。ネパールダンスに手を染めてから14ヶ月。その密度は有子さんやプロに比べたら敵いはしないが、素人なりの、ITエンジニアなりの、山岳ジャーナリストなりの、マラニックなりの凝縮された14ヶ月を過ごして来たことを誇りに思える時が来たのである。腸と頭を抱えるために今、Phewa湖の畔に屍を曝しに来たのではないのだ。今、此処に、燃える踏魂、アントニオを見せて進ぜよう。 リハーサルを終えて軽く昼食を摂り、控え室と言う名の舞台裏に回って出番を待った。昨年11月町田公演のミュージカルのビデオ放映が始まった。そう、アントニオが悪魔大魔王ラーヴァナを演じていた昨年のあれである。舞台裏で自然と昨年の振りを体現していた。体は動く。むむ。これならクッタマできたかもと思しき程の回復具合であった。蘇ったネップチューン。踊神、シヴァの化身となった。ディマール、タマン・セロ、サケラ・シリ、そしてソーラン節。今、やれることを200%出した。俺の踊りだ、文句あるか。Pokhara市民の受けもお陰で上々であった。大量の汗を掻いた。有子さんは踏了後、各メンバーをお客さんに紹介してくれていた。勿論ネパール語で、である。自身については、ITのエンジニアで、熱さえなければクッタマ・ニルパレ・パルラを披露出来た筈だ、Kathmanduでも似たようなメニューなので是非とも見に来てください、と言った紹介振りだったのではなかろうか。何せネパール語は右も左も解らないのだ。だが、我が踊りは世界共通語であった。
記念撮影とレンタル衣装の整理を済ませ、宿に戻った。宿では出演者総出で打ち上げだ。地元日系主婦連合の方々は既にビールで盛り上がっていた。何よりビールが旨い。Pokhara公演は大成功の裡に幕を閉じた。
【Pokhara公演招待状】
そして、我々の平和への願いが通じたのか、10年以上に亘って武装闘争を続けて来た政府と共産党毛派がKathmanduにて今日、無期限停戦を誓う包括和平協定に調印をしたのである。我々の踊りが歴史を刻んだ。
(続く)