valuable


庵庵…鴨居〜東神奈川〜日暮里〜成田空港/香港国際空港
/Tribhuvan国際空港−The Bakerly Cafe−BPD GH

11/19(日)
BPD GH…Benchen Monastery…Swayanmbhunath…BPD GH
−トリブヴァン空港/Pokhara空港−Mum's Garden Resort
…レイクサイド散策…MGR

11/20(月)
MGR−Sarangkot−MGR…レストラン…Nabil Bank
≡Pokhara Tourist Service Center・Nepal Tourism Board…MGR

11/21(火)
MGR−NTB(Japan in Nepal 2006 Pokhara Stage)−MGR

11/22(水)
MGR−Pokhara空港・Restaurant≡MGR…古都…MGR

11/23(木)
MGR…Phewa Lakeside Park…MGR−スーパー−(Prithivi Raj Path)
−Bottom Station・Manakamana Cafe#マナカマナ山頂駅
…Manakamana寺院…山頂駅♯Bottom Station−カトマンズ市街地
−BPD GH≡Tapan≡BPD GH

11/24(金)
BPD GH…市街地≡Royal Nepal Academy(王立劇場)…The Bakerly Cafe
…RNA≡Crowne Plaza≡BPD GH

11/25(土)
BPD GH…周辺散策…BPD GH−RNA(Japan in Neal 2006 Kathmandu Stage)
≡Utse Hotel−BPD GH−トリブヴァン国際空港/(RA411)/

11/26(日)
/上海浦東空港/関西国際空港…周辺散策…KIX/(NH998)/羽田空港
〜京急蒲田〜仲木戸…東神奈川〜鴨居…庵庵

−:ツアーのチャーター車、≡:的士、〜:電車、/:航空機、
#:ロープウェイ

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前回までの粗筋:
悪寒に襲われたアントニオはリハ中に一念発起して回復、
Pokharaステージを演じ切った。

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不定期連載 台道・陸道をゆく 話数知らず
06/11/18~ ネパール Pokhara、Kathmandu
【valuable】
11/22(水)



Kathmanduへの移動日である。ちか子さんの娘さんみなちゃんと有子さんの娘さん羽和ちゃんとは1つ違い、今生の別れを慈しんでいた。宿から空港までは車で10分とかからない。どんよりとした曇り空の中、Yeti Airのカウンターには「天候不順で遅延が生じている」との走り書きが存在した。当初9時30分発の便の搭乗を予定していたが、10時にして今日は未だ1便たりともPokhara空港を飛び発っていないと言う。結局、異常気象で遂に3日とも晴れず仕舞いなのだ。長居になりそうとのことで、2階のレストランに赴く。テラスから滑走路を眺めても、待機中のBudda Air機、Yeti Air機に動く素振りもない。そのうち暇を持て余した我々は、 Kathmandu公演に備えての「予習」を思い思いに始めていた。アントニオは遅延便待ち客で賑わう空港レストランのテラスにて、昨晩実演未遂のクッタマ・ニルパレ・パルラを、Pokhara空港離陸待ちの皆様の視界に置き土産として焼き付けるべく、踊った。踊り草臥れ、羽和ちゃんと野球ごっこをしたり、空腹に耐え兼ねて食事をしたり、時間を潰せども潰せども、空、晴れず。注文したネパールチャに蟻の死骸がのめり込み、気にしたが最後、「直通」を覚えてしまった。空港の男子トイレの個室は2箇所。水洗、、、のようだ。1つは水洗レバーが見当たらない。もう1室のはレバーが存在したが、弁と連動していなかった。便座の脇、左足元を見遣れば、蛇口とバケツが、、、
蛇口を捻れば水は出る。 そういうことか。腹は決まった。紙は当然の如く付随していなかったが、山屋は常にトイレットペーパーの携行を怠らなかった。腹に据えかねたものは出すしかない。不要物よ、左様なら。さて、蛇口を捻ってバケツを満たし、タンクに注入した。タンクにも若干の破損があり、タンク下は水浸しだ。便器本体が破損していなかったのが幸いである。まぁ、これでもトイレとしてはまとまな部類だろう。今日でトイレ道2級皆伝は間違いない。15時過ぎ、偵察的にBuddaAir、Yeti Airの各一機が空港を発った。その2機が気象情報をKathmanduに伝え、それ次第でPokharaに戻ってくるとのことであったが、15時半になり、もう今日はお開きとの通達が下った。1階に下りて荷物を引き取り、振替明日便時刻の交渉に相成ったが、何と明日の15時便に退けられてしまったのである。ちか子さんと有子さんとで怒鳴り込んでもPokharaのオフィスへの訴えでは暖簾に腕押しなのだ。空港に来て、Kathmandu公演プレシハーサルを行い、再びPokharaの宿に戻るとは露にも思わなかった。個人的にはPokhara滞在期間が延びることは歓迎であった。トピを買い損ねてしまったし!




タクシーで宿に戻り、アンティー、春名さん、梅さんに、空港で同じく置いてけ堀を喰らった前田さんとでレイクサイド土産物色に阿る運びとなった。アンティには交渉役として多大な貢献をいただいた。トピ売りの1軒目はサイズが小さいものばかりだったが、その中でも大き目のもの2着程を選び、「取って置いてね。また後で来るからね」と店員に釘を刺して店を出た。2軒目、サイズの大きなものが豊富でデザインも申し分なかった。前の店では150Rsと言われたが、此処では250Rsとふっかけられた。素材が違うとか追い討ちを賭けるが、近江商人アンティは聞く耳持たず、「帰る!」と怒りの眉間を顕にした。怯んだ店員は150Rsと手の内を明かした。ならばいいだろう。梅さんとアントニオは夫々希望数を購入し、アンティは4着程選別し、「今、お金ないから後で買いに来るからね。取っておいてね。ありがとう」。との言葉を残して店を去った。神業であった。その後、数百m先の日本料理屋に至るまで、アンティと春名さんは何軒の土産物屋を物色したのだろうか。商人は今日も行く。両人の買い物エネルギー、物色魂は、内戦の根底にある貧困解消のための経済支援活動に一役も二役も買っている事に異論の余地はない。
古都のすき焼き、トンカツに天麩羅はそこそこの見栄えであった。然し、フィレの照り焼きはジャーキー寸前だ。辛うじて救われた真っ黒の肉塊であった。美味だったのが幸いであったが。定食の品揃えの中、最後にご飯どんぶりが配られようとした寸前、停電となった。動じてはいけない。何時までもあると思うな親と電気。手馴れた店員が蝋燭を準備していた。数分後には復旧したが、店を出るまでに数度電気が落ちた。昨日踏了してもう何でも受け入れられる余裕があった。昨日のNTBには発電機さえ持ち込む必要があったのだから。そして、アンティと春名さんは食前の買い漁りに飽き足らず、食後も財布の紐を締め切ってしまうことはなかった。
宿へ戻る手前、老守衛さんに丁寧に「ナマステ〜」と挨拶された。どうもアントニオの頭脳では、英語でも日本語でもないとの思考回路が短絡してしまい、「Bon Soir」と答えてしまう。有難うに相当する「ダンニャバード」が言えず、何度「Mercibeaucoup!」と口にしたことだろう。
先に宿に戻り、梅さんと2瓶を空けてもなお買い物から戻らなかったのである。空港で待ち草臥れてぐったりしていたと思しき両人だが、何処から沸くのか摩訶不思議な買い物パワーであった。
11/23(木)
昨日の日本食で体腸も悪くなく、朝シャン後に周辺散策を決めた。丁度梅さんも宿を出立てですぐに追い付いた。6時45分に宿を出たが既に営業を開始している店も少なくない。焼き立てパンを大皿に載せての歩き売りさえあるのだ。もう少し体腸が抜群なら焼き立てパンマニアのアントニオが買わずには居られなかったであろう。Phewa LakesideParkには日本と異なり、多くの子供達が遊んでいた。通学前の7時台である。空手、ジョギングに勤しむ子、カヌーを漕ぐ子も居る。若干の大人が犬の散歩、といった風景は此処にも存在したが。朝運動して朝食をしっかり摂って就学とは何と健康的なのだろうか。この当たり前の様に「健康的」の表現を、態々使わねばならない昨今が悲しい。
宿に戻り、朝食を摂る。野菜入りオムレツが美味しい。食事が安心して食べられることは幸いである。さて、今日の予定だが、朝の散歩の時点で昨日より雲の色が重く感じられ、午後便の離陸を待つのは浅はか過ぎると予想された。幸いツアー構成員全員とも健康そうなので、1BOXカーをチャーターして陸路でKathmandu入りしてはどうかとの談義となった。この天候では飛行機の窓からはヒマールを拝むことは無理である。午後便まで待っての決断では疲れて陸路と言う選択肢も覚束ないだろう。支度を調えているうちに周辺では新車クラスと呼ぶに相応しい1BOXカーがやって来た。おお、これなら快適そうだ。 陸路はKathmanduまでの200kmを5時間から9時間もかかるとのことである。東京松本間を9時間、、、山を越え、谷を越え、その次は山賊の映像が鮮明に浮かぶ。山賊との越境交渉の成り行き次第で5時間ものが9時間になってしまうものなのか。陸路もまた険し。命あってKathmanduに辿り着きたい。10時過ぎだろうか、1BOXカーは宿を発った。市街地のスーパーにて車内で摘むお菓子や水分類を調達し、畑の間を進む。建築物の足組みは香港同様、此処でも竹が利用されていた。田園地帯は続く。牛もハイウェイと呼ばれるこの道路上を歩く。舗装されてさえすればそこはハイウェイである。道路の凹凸は気にしてはいけない。地球の歩き方には「畑」と記載されているが、少し見れば田んぼであることは容易に確認できる。ダルバートに登場するインディカ米。身包みと思しき程大量の藁を担いだ農民。バス、トラック、乗用車の往来は激しい中、田園には今でも牛と人手が主役なのである。







山間にさしかかれども、端正取れた棚田が美しい。Pokhara市街地から何十分と車に揺られても、人家は絶えない。やがて車窓の左手にはトリスリ川がせせらいでいた。ううむ、この光景。実際には確認したことがないのだが、四国の祖谷の風景を見ているような気分であった。山間は緑のまま、、、四川省??水の透明度は高い。Kathmanduの排気ガスに因る煙幕劇場だけがネパールではない。ヒマールだけがネパールではない。自給自足の健全な集落が点々としていた。


祖谷渓の合間に観光用ロープウェイがあるとのことで一息入れることになった。ロープウェイは12時から13時半まで昼休みで動いていない。レストランでvegitableのダルバートを注文する。胡瓜、人参、玉葱、ライムは生で添えられていたが、どれも美味しい。特に小さい玉葱と言うべきか、ラッキョウの2.5倍程の大きさの紫玉葱が甘辛く、感動モノであった。ほうれん草の漬物、ダルスープに野菜カレーをバートに混ぜて食べる。ネパール5日目にして漸くネパールに胃も染まった様だ。腸子も悪くない。我々が食事をしている間にロープウェイも動き出した。
さて、ロープウェイの料金表を見て驚愕した。ネパール人320Rs、外国人USD12。差別である。ネパール人の約3倍を払わねばならないのだ。チベット、インド、パキスタン、バングラデッシュ、スリランカ、ブータンにモルディブのSAARC加盟国の者はネパール人より少し多く取られるくらいの模様だ。ヤギなら150Rsで済む。山頂にはヒンズーの寺院があり、ヤギは儀式に不可欠な登場山羊物であった。チケット売り場で150Rsビタ一文違わず差し出し、山羊の被り物を纏って終始、「メ〜メ〜」と鳴き叫び続ければ一般外国人の7分の1運賃で済む筈だ。但し、ゴンドラは山羊専用の無蓋籠である。10分とそう短くはない空中遊泳に増す迫力は筆舌し尽くすこと可わざる方便だろう。 仕方なく、米ドルを支払って霊長類の我々はスイス製のゴンドラに乗車した。次回、体力があれば、間違いなく歩くことだろう。例えば、営業開始前から或いは昼休み中を捉えては競争することがアントニオの使命だろう。ゴンドラ山頂駅より上は、ヒンズー界である。マナカマナ寺院が君臨し、信徒を毎日捉えては止まない。マナカマナは大願成就の女神の意である。生贄の供養プジャ。山羊の血と内臓の世界だ。本堂内はヒンズー教徒しか入ることが認められていない。大願成就にはそれなりの代償が必要なのではなかろうか。嘗ては麓から3時間半かけて登るべきこの本山である。世の中はそんなに甘くはなかろう。そして、寺院舎肩越しに覗くヒマールにこそ、アントニオは願掛けすべきかも知れなかった。

また、マナカマナは蜜柑の産地である。味は日本のそれと変わらない。所謂日本の蜜柑の大きさ、伊予柑やオレンジ程大きくない物で、各袋に種が入っている程度の違いだ。
下山便は待ち行列が長く、都合15分は待たされた。急いではいけない。ゴンドラ下に広がる棚田。牛と人の息吹は此処にも、夕刻と呼ぶべきこの時間帯にも存在した。たぶん彼等にとって、日本、或いは隣国、或いは隣村の人や牛が如何に生活しているかなど興味の対象になり得ないのだろう。悠久の時が今迄ずっと流れ続け、そして今後も流れ続けることだろう。田園にも広がるサリー姿。
やがて日も暮れ行くハイウェイである。結局日没前にKathmandu入りすることは不可能であった。あと20kmを切れども続く斜面に九十九折。Kathmanduは盆地である。沿道には商店が目立つようになった。市街地に入って渋滞に巻き込まれた。国民の平均的収入に比べて馬鹿高いガソリン代なのだが、車の台数は減ることはなかった。クラクションの鳴り止む瞬間なぞ忘却の彼方に消した大通りの晩は、今日も人々が殺気立っていた。ここの教習所ではクラクションのタイミングを学ぶのだろうか。排気ガスは日暮れて見え難いが、存分異臭を放つが天体までは届かず、上空にはそれでも日本の首都圏で確認可能な数の6倍は星が瞬いている。凸凹道の先にBenchenゲストハウスを見つけた。予定より1日遅れになろうが、今晩は有子さんの旦那さんの実家に訪問させていただくこととなった。途中からプレームジーの弟さんのバイクにタクシーの先導をお願いしたが、オンロードタイプのバイクで飛ばすのは勇気が必要な砂利道であった。訪れれば大邸宅で、プレームジーのご両親とプレームジーの複数の弟さん夫妻が居住する賑わいである。エラグル、それはネワール族の酒豪、酒大先生を意味するこの語感に房相応しいプレムジーのお父さんは、仕切りにネパールのウィスキー BAGPIPERを勧めるので拒むわけにはいかなかった。矢張り、濃ゆい。然し、大皿に盛られた地鶏のカレー煮は軟骨も噛み砕ける程軟らかく煮詰められていた。肉も締まっており味も上々だ。やがて別テーブルにダルバートが並べられた。ほうれん草の漬物、ダルスープ、地鶏、そして梅干風の甘味が添えられていた。プレームジー一家の方々は勿論右手の指でバートと残りスープ類を卒なく混ぜ合わせながら食べている。日本人には優しい辛さ、地鶏もお替りが進む、進む。今日は急場で代打に依るの調理だった模様だが、普段はお父さんが厨房を仕切っているとのことである。ネパールの家庭料理の入り口に、今、漸く立てた。ダルバート後の2杯目のBAG PIPERに危険を察知したアントニオはお父さんを制してしまった。その時の寂しげな表情に呵責の念を禁じ得なかった。もう少し時間があれば、、、。お父さん、だからと言ってウィスキーのグラスにそのまま、ネパールでは広く普及しているデンマークのビールTUBORGを注いでしまうとは、、、胃に入ってしまえば変わりはない、と言うことか。。。電話の最初の挨拶がフランス語とネパール語とで同じ発音であることに気付いたのはアントニオが世界初めてかも知れない。
11/24(金)



再び朝5時台から笛と銅鑼の音、犬の遠吠えが響き、目覚まし代わりとなったBenchen界隈。あ、犬は日本の鶏と同じ役割なのか。此処の鶏も鳴き方は日本と変わらない。そして今日はJapna inNepal 2006 Kathmandu公演のリハーサル日である。
有子さんが密教を習得した教授宅や現地学生時代からの友人の営む飲み屋等に寄り、Kathmanduの市街地を少し知った。










その後、あのネパール王立劇場、Royal Nepal Academyへタクシーで移動した。出場者に依っては今日も現れず、明日当日、演目の寸前の打ち合わせのみになると言う。我々日本からの6人、KathmanduやPokhara在住の日本人、青年海外協力隊の方々、そしてネパール人ダンサー、演奏者、タレントなど総勢50人程の大ステージである。Royal Nepal Academyはやや草臥れており、トイレも水洗とは言い難い。そう、RNAの場所を知らないタクシーの運ちゃんも少なくはなかったのである。ネパール7日目となった今日に至っては、タクシーの運ちゃんが頭を振ることは「Yes」の理解であることに違和感を覚えなくなっていた。リハーサルとは言え、その総出演者の5分の1程度しか集まっておらず、どうも臨場感の乏しさから踊りにも十分魂が籠められなかったように思う。肉体だけは動いていた。その動きだけに現地スタッフの面々が唸り声を上げていたらしい。シェルパ族を除けばネパールダンサーとしては世界屈指の長身なのが彼等に何かを訴えたのかも知れぬ。マーダルと呼ばれる太鼓のリズムに合わせて軽快に踊るジャウレと言うジャンルの曲である。歌詞には「足が青くなるまで兎に角踊り捲くって楽しくやろう」とある。そう、兎に角この曲の真髄を見せてしまうと、青タンまでは行かないが筋肉痛になってしまうのだ。その温存振りだけで現地人を唸らせてしまったのである。明日は200%を出すしかない。

2年前には来日していてNepal in Japanに参加していただいたクサン・シェルパ氏にソーラン節を伝授したりなど、それなりにリハーサルらしくなっていた最中、腐食した電飾ガラスの1つが舞台前方に落下、とのハプニングに見舞われた。嗚呼、これが本番でなくて良かった、、、何時の間にか肝っ玉の据わったアントニオは全くこのアクシデントを悲観してはいなかった。ただ、ガラスが散らばった舞台は、裸足で踊るダンサー等には暫く抵抗感が消えなかったのは事実だが。
夕刻も近付き、本番前夜祭、日ネ国交樹立50周年記念協力合同パーティーの運びとなった。パーティーとかもうそんなことはどうでも良い、アントニオは明日の主役格なのだ、飲めれば文句はない、とハイキング用シャツとズボン、そして足元の極め付けはビーチサンダルの井出達で、5ツ星のホテルCrowne Plaza Hotel KATHMANDU-SOALTEEに乗り込んだ。女性陣は此処ぞとばかりに各々サリーに着替えていると言うのに。。。然し、動じてはいけない。私にはネパール正装装束、トピと言う武器があった。今思い返せば、一昨日前に天候不順でPokhara滞在が1日延びなければ此処にトピはなかったとのである。 そして、このマイ・トピがアントニオ生誕36周年と言う記念日に発行されたネパール紙の1面を飾ることはなかったのである。19時開始予定の式典は案の定19時に始まることはなかった。式典開始までホテル専属のオーケストラの演奏が続いた。きっと彼等は全てを心得ているのだろう。然し、同じ曲が2順はしなかったのだろうか。予定より40分は遅れただろうか、否、ネパール時間としては台本通りなのだろう、式典が始まった。色々と挨拶が続く。英語で喋ってくれる方もいらっしゃって少々堅苦しさは軽減されたが、今、挨拶は短ければ短い方が良かった。山梨県からの参加であろうか、紅富士太鼓の若者集団の演奏は華やかであった。 俺もあれくらい太鼓が叩ければ、と感じた。然し、明日の俺の舞台を見ろ。悔しかったら俺と同じ踊りを踊ってみろ。早く飯を出せ。酒だ。式典は進んだが中々「ご歓談」タイムには至らなかった。痺れを切らして待っていた甲斐があり、やがて飲みタイムを迎えた。飲み物カウンターは殺人ラッシュである。遠慮は自殺行為である。人の風除けになっている場合ではない。5ツ星ホテルの作法などはかなぐり捨てた農民等がバーテンダーを襲う。法の網の目を掻い潜り、割と早めに赤ワイングラスを入手したアントニオは意気軒昂としていた。この会の参加費の高さもネパール感覚的には尋常ではなかった模様だが、飲んで元を取れ記念式典なのだ。 もう胃も堅腸であった。ご歓談時間にもなったが、料理の前も大行列が止むことはなかった。ネパールで、何が高級なのだろう?然し、海胆や鮑、伊勢海老、黒鮪は5ツ星ホテルなれども食卓を賑わすことはなかろう。取り敢えず空いていた列に潜り込んでは幾重の一品を自皿に並べることに成功した。腹八分。否、飲み十分も酣で、未だ右手の十度目に近いワイングラスに赤ワインが揺らめいている頃、南瓜の馬車の迎えが来てしまう。一気に飲み干して玄関を目指す。南瓜の馬車ならぬ黒塗りのベンツであった。どうも怪しいタクシーだが、それでも交渉の末の金額を日本円に換算してしまうと端金と思い込んでしまうブルジョワジーな日本人等は、15分程ベンツに揺られてBPD GHに戻った。
11/25(土)


本番当日との気概は微塵も感じないまま、早朝に目覚めたアントニオは聖堂周辺を散策した。陸軍病院も近い。オート3輪車も健在だ。この、あまり馴染めないと思っていた光景も、今日で見納めか。有難う。
ネパールの人々から、力強さを感じさせて貰った。お返しに、今日の午後一、RNAにて貴方方が忘れかけていたものを見せて進ぜよう。今日がツアー全員の最終日と思っていたのだが、6人中3人はネパールに残ると言う。この宿に残るメンバーの部屋に大荷物を纏めて、溜めていた朝食代を宿のフロントで払い、決戦の舞台へと向かった。

事前に有子さんからちらっと伺っていた病人と祈祷師の演目なのだが、矢張り慣行される運びであった。現地タレントと呼ぶべきプレーム・ロプチャン氏扮する祈祷師ジャクリの演技なのだが、氏は日本語が解らず、青年海外協力隊の方に通訳をお願いして舞台の打ち合わせをした病人役のアントニオである。数分の打ち合わせで理解したつもりになっていた。不安がゼロではなかったが、俺には演者の魂が据わっていた。
ディマールの演目は、他の出演者には申し訳なかったが、アントニオにとっては消化試合でしかなかった。先程の数分の打ち合わせでアントニオは何を出せるのだろうか。ジャクリの前の演目の最中、プレーム氏と相方の方が舞台裏に眠っていた車輪付きの大道具をゴロゴロと動かし始めたのである。何が起こるのか。我々の出番までに彼等の準備は終わるのか。不安は募るが、なるようになってしまえ。
相方の方の適度なリードの甲斐もあり、アントニオは舞台中央に躍り出た。腹痛を抱えた日本人旅行者の役である。「役」と呼ぶことなぞ、生温かった。全身全霊を籠めて腹痛を抱えることは、アントニオにとっては「普段通り」の振る舞いで十分であった。痛がって倒れたり、火を怖がったり、火に打たれてピクピクするなぞ、何時でもやってやる。ただ、一子相伝の暗殺芸のため、2度と同じ振りを再現することは出来ないのだが。客席が沸いていた。演技ではない。演者としての日常の振る舞いをしたまでである。無数の笑い声が聞こえて来た。打ち合わせ通りの200%を出し切った積もりだが、果たして台本通りだったのだろうか。
大成功だったようである。他の出演者からも「何故寸前の打ち合わせだけであれだけのものを作り上げられるのか!」との驚嘆の声が鳴り響いて止まなかった。寸前の打ち合わせだけで舞台を作り上げてしまったアントニオは異分子かも知れない。否、その中でも巨大な、異分母と呼ばれるべき存在なのだろうか。庵的メインイベントはクッタマ・ニルパレ・パルラである。その前に転んでいる余裕はない。その意味ではジャクリは良い準備運動となった。

その十数分後、全身全霊のジャウレダンサーと化した。シヴァよ、再び乗り移れ。本来貴方方が演じるべきこの舞を、ダンス歴若干14ヶ月目のアントニオの生き様と共に目に焼き付けよ。20近い全演目中、全員参加のサケラ・シリとソーラン節は別格として、そしてクサン氏が作った平和の歌の演奏は、差し詰め紅白で言うなれば「サライ」の大重唱格であろう。その寸前の横綱戦である。Pokharaの怨念を、晴らせ。ジャウレの最高峰を今此処に知らしめよ。
いきなりだが、振りを間違えてしまった。多分バレなかったであろう。Royal Nepal Academyの舞台は広かった。町田の舞台の2倍はあったと思う。町田では3組6人に依る共演だったが、今日は有子さんとアントニオの1組による独擅場なのである。少々、舞台は広過ぎたように思う。ジャウレ最高峰を演じるには少々無様だったかも知れない。ただ、渾身だった。あ、渾身過ぎて、目線が客席を向いていなかったかも知れぬ。未だ若輩者だったか。他の準備で忙しい有子さんとはリハーサルでさえ2人で1度も振り付け合わせをしていなかったのだから、上出来と声を上げても悪くはなかったことだろう。渾身のコサックダンス!屈伸16連打!!夢想花高速32回転!!!踊り力尽きて体中の震えが止まらなかった。文字通り、出し切ったと思う。ジャウレの真髄の5分の1くらいでも、お茶の間に届けることが出来たと思う。
サケラ・シリも伸び伸びと踊れた。ソーラン節も濁声をRNA中に響かせられた。そして、全演目は終わった。
【Kathmandu公演招待状】

舞台に並ぶ、各出演者。絢爛たるメンバーである。ネパールの普段でもこれだけ壮々たるメンバーが揃うことは稀であろう。その末端に、アントニオは仁王立ちしていた。演じ切った。もうこれ以上、演じることは何もない。去年、町田で演じ切って数週間抜け殻状態となったのだが、それに近い感覚であった。力尽きた。
爽やかな風が王立劇場を取り巻いていた。南仏に、活かしたフレーズを思い出した。Super, commed'habitude!何時も通り、最高さ。何時も通り最高さを感じられる彼等には敬服するしかない。何時もクッタマを踊っていればそうなるのかも知れない。但し、何時も観客が数百人は必要であろうが。自分は何時も通りとは到底異なるが、他の出演者の顔触れを見るからに、何時も通り、最高さ、と感じさせられた方が何人も居た。
Utse Hotelに雪崩れ込んだ出演者や関係者の面々を見て、そう素直に感じた。ネパール人の力強さだけではない。お金で買えない伝統芸能の奥深さと、この集い、人との繋がりの偉大さを痛感した。凄い面々の中に、アントニオは居た。ネパールに1週間、ナマステ、ダンニャバード(有難う)、プギョッ(満腹)、メロナムアントンホ!(私はアントンと言います)、ニトー(美味しい)くらいしか言葉を覚えていない。だが、舞台は成立したのである。世界共通語のダンスは幾許か通じたのである。チベット鍋と言う、日本のおでんに近い美味しい鍋に箸が踊る中、運命の別れは容赦なく襲った。

打ち上げ会場を辞去し、BPD GHに戻って全荷物を引き上げ、トリブヴァン空港へ戻った。発券カウンターはノンビリムードで、我々のチケットを発券した直後にコンピューターが停止した。鞄の荷物を取り出してのセキュリティチェックを潜り、満席状態の待合室で数十分待たされた。そして我々が搭乗した機体は予定通り香港から乗ったそれであった。座席は前回より1列前であり、緊急時に天井から降りてくるべくライフジャケットのカバーが若干捲れているのが、先週土曜日に見たそのまんまであったのだ。
11/26(土)
23時半過ぎにKathmanduを飛び立ってそれはないだろうと思っていたが、夜食のサービスを迎えてしまう。出されるものは逃してはならぬ。日本時間にして午前4時台だったろう。然し何時もの通り赤ワインを所望し、淡々と夜食を平らげた。上海には日本時間の7時過ぎに到着していた。幾重の中国国内線機が並ぶ上海浦東空港である。雑技団のような一行が機内のゴミを回収して行ったようだ。窓外を見遣れば、朝食と思しきワゴンケースが数個積み込まれていることが確認された。薄曇である。余韻が身体から抜け切ることはなかった。そして、36回目のあの日を迎えたことになる。ダンサーとしての進化はあったと思う。関空まで僅か2時間、もう帰国した気分である。現実に戻らねばならない。人間としての進化は、果たして。人への影響。社会への還元。今年半ば、4年近く携わってきた業務を離れる決意を固めた。新たな舞台で、アントニオを発揮できているのか。
関西空港着陸時の衝撃でライフジャケットが落ちて来た。正常動作であった。関空での待ち時間が少々疎ましかったのだが、当然ながら昼食は蓬莱551の一品以外に目は向かなかった。そして長い長い待ち時間、この紀行の下書きを認めていた。長い長い紀行であったため、昨日分半ばで搭乗時刻を迎えた。乱気流のため、ドリンクサービスすらなかった。とは言え、運航時程に影響はなく、約1時間後、羽田に到着した。無事に。戻らなければ良かったのだろうか。現実と向き合うことを躊躇う自分が居た。物価の安いネパールを経て、物欲は沈静化した。然し、お金で得られない物の尊さが身に染みた。形のないものを求めて、明日からも生きてゆきたい。

(完)

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★

付録:
陸旅アドバイス
・銀行での両替はレートは良いが税がかかる。再両替可能。
・両替商では手数料なしだが再両替不可。