帰宅難民選手権

不定期連載 陸道をゆく 話数知らず

帰宅難民選手権
【帰宅難民選手権】

3/11(金)
某社…新横浜〜品川〜横須賀線新橋の手前1.2kmくらいの地点…新橋
…愛宕神社前…NHK放送博物館下隧道…R1…三田二丁目…高輪台
…TOCビル…中原口…都道2号線(中原街道)…南千束…丸子橋
…県道45号線(中原街道)…小杉十字路…厳川橋…能満寺…野川
…久末…向原…大塚原…東方原…原庭バス停…山王前…出崎橋
…鴨池大橋…鴨居五丁目…庵庵

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何も、知らなかった。何も、備えてはいなかった。客先への打合せに向かう途上のことだった。東海道新幹線はこだま650号を品川で降り、総武線直通横須賀線の君津行きに乗り、地下に潜ってから数分の出来事だった。横須賀線電車は地下トンネル内を快調に飛ばしていた。「急停車します、ご注意ください。急停車します、ご注意ください」の車内アナウンスが響く。その瞬間、アントニオは人身事故に思考が短絡していた。嗚呼、人でも刎ねてしまっただろう、困ったものだ、、、否、地下の、しかも駅と駅の間であるから、余程計画的でないと飛び込みなんてできやしない、であればそれ以外の如何なる事態なのだ、との思いを瞬時に巡らせている矢先であった。
そう、グラグラっと巨大な揺れを感じたのである。
アナウンスとともに急減速をし、何とか脱線もせずに電車は停車した。新橋まであと1.2kmほどの地点であったらしい。とても幸いなことに、車内はガラガラであったし、停電にもならなかったことである。おまけにトンネル内にも拘らず、携帯の「電柱」は3本も立っていたのだ。取り急ぎ、客先には今日の打合せ資料メールに、地下で缶詰になっている旨を伝えた。その後、相棒の営業担当からは、そちらに到達は困難であろう、会議延期の動議メールを送付した。千葉県の取引先の方が被災が尋常ではなく、即座に帰宅指令が出されたものと思われ、先方からの返信をその日のうちに受取ることはなかった。
地下トンネル内で缶詰になって1時間が経過したであろうか、車内アナウンスにより乗車中の全JR職員に対して総動員令が発せられていた。着衣姿から、非番もしくは早番で帰宅中に巻き込まれてしまったと思われる職員も数人いたようである。非番にも拘らず彼等は誘導案内に尽力しながら、自分達に責はないにも拘らず、謝罪の言葉をかけながら業務に当たっていた。ご苦労様である。横須賀線地下トンネル区間は上り線下り線とは別穴になっており、線路の両脇に高さ1mくらいだろうか、幅もそれと同じくらいのいわば歩道が存在し、歩き難さを感じたことはなかった。地下トンネルを歩く経験は今までになく、今後もそう訪れることはないであろう。 一生もう2度とないかもしれない地下鉄walkに粛々と歩みを進めながらも、ケータイのカメラのシャッターを切る者の数は後を絶たなかったであろう。アントニオも然り。歩きながらの撮影で、身構えてシャッターを切る余裕はなかったため、ピンボケであるのは仕方ないか。今思うと、地上のビル内に居たより感じた揺れは弱かったのではないかと察する。ただ、何時、停電に陥るか、不安は尽きなかったが、未だ我々にはのんびり歩く余裕があった。東北地方太平洋沿岸の方々の被災具合の比には値しなかった。
20分ほど歩いて何とか新橋駅の地下ホームに至る。エスカレーターが動いていないくらいは何でもない。階段を昇って地上に這い上がった。みどりの窓口で払い戻しを願うと、「この切符で出発地まで戻れる」とのことだった。思えばこの窓口氏は詐欺師以外の何者でもないと、感じられない人は皆無であろう。果たして、如何なるJR線、私鉄各線も運転を中止していたのである。鉄道も運転手は人間である。運転手が避難してしまえば、電車は動かせない。それは理解できるが、今度その窓口氏を見掛けたら、ローリングソバットに突き上げるウェスタンラリアート、延髄斬りにツームストンパイルドライバー、ラストライドにエメラルドフロウジョンを畳み掛けても気が済まない思いであった。
帰宅難民。
従来、大震災の際に発生しかねない事象であり、夢の延長線上のことだとばかり思っていたが、遂に現実となってしまった。翌日のツアーがなければ、新橋の飲み屋で一夜を明かすで何ら問題はなかった。確かに、この状況の明日で電車が動くものかも不明ではあったが、アントニオは帰宅を決意した。一時は、正義感から一旦帰社を、とも考えたが、状況も状況だろうと、神も許してくれるだろうと思う。
「歩行中、数時間で鉄道が復旧したら」「否、復旧を期待しないで最短に行くには」少々悩んだが、結局R1を選択することとなった。R15でそのまま進むと、新子安付近から逸れて大口方面には行けるが、その後、新横浜に寄って今日の乗車券類の払い戻し要請はできるかも知れないが自宅へは遠回りと思い、何となしにR1を選択した。R1に辿り着くまでもそうだったが、何処の道路の歩道も帰宅難民で溢れていた。バスは多少動いているようだが、都内の路線構成は一切把握しておらず、ただ待たされるだけだと思い、やはり断念した。その後の報道では「2時間も待ってもバスに乗れない」などとの難民コメントが挙げられていたが、笑止千万、否、笑止66億9千8百万である。臨時列車、超特別快速特急アントニオ帰宅難民81号は、闊歩していた。何十人、何百人と追い抜いたことであろう。東京タワーを尻目に赤羽橋、三田国際ビルを見遣って、三田界隈まで到達すると、しまった、此処までであればR15経由の方が距離が短かった筈だ、と後悔しながらも、右折してR1の歩行を続けた。難民の数は減らなかった。少し催しかけたが我慢した。五反田駅まで来た。鉄道の動く気配は全くない。そのまま歩く・難民の数は相変わらず夥しい。そろそろ、と思い、公衆トイレ、或いは大き目の商業施設内のそれを模索していた。大崎広小路のTOCにピットインできた。すっきりしてから表に戻る。右折すれば中原街道である。それはアントニオも知らなかった。R1やR15より自宅への距離は短くはなるが、鉄道網が復旧しても、、、嗚呼、東急線くらいのお世話にはなれるか、と思いながら、TOCを発った。
山手通り、環7を跨いだ。環8との交差点にある田園調布署では、鉄道の運転の再開見込みはない、難民向けに地図配布とトイレを貸すとのアナウンスが聞こえてきた。有難いと言えば有難いのだが、鉄道運転再開の件は想定通りであり、落胆せざるを得なかった。アントニオは幸い、地図もトイレも不要だった。横須賀線品川駅ホームの自販機でPETボトル水を購入したが、口にするタイミングなく此処まで来てしまったのである。
新橋から約2時間半、遂に丸子橋で多摩川越え、である。川風が身に染みる。周辺停電の影響で暗いが難民は減らなかった。東京よ、さらば。もう2度と歩きたくはないと感じた。多摩川の先の川崎市は更に悲惨であった。停電地帯が広く、信号も点かないので、寒い中警察官が手旗信号と笛で途絶えない交通網に応戦していた。お巡りさんによる交通整理中に事故が発生しなかったのは幸いであったが、その後、計画停電中の信号未点灯による死亡事故には、普段から一時停止ミスなどの悪習が発現しただけだろう、哀れみは一切感じなかった。予期できた事故だろう。
中原区も一帯が停電中だったにも拘らず、某F社社屋は自家発電故か、煌々とビルに電灯が行き渡っており、寧ろ、哀れみさえ感じた次第である。インフラ関連の事業部なのであろうか、合掌。中原区から高津区へ入っても停電は解消していなかった。
20:45、遂に横浜市に入った。都筑区は広かった。北風が身に染みた。そう、確かセンター南駅から笹山団地或いは緑車庫行きの124系統バスがあった筈だ。その一区間くらいならバスのお世話になっても罰は当たらないだろうと思いながら進む。市バスのiモードサイトも繋がり難かったが、何とかアクセスに成功した後に検索してみると、20分置きに運行されていることが確認できた。渋滞さえなければ待たずに乗れるかも知れない。しかし、勝手知ったると思っていた中原街道を何処まで進んでも一向に市営地下鉄の高架線が見えて来なかった。ひょっとして、、、センター南に面する通りは、中原街道より数ブロック西寄りだったかも知れない、、、さすがのアントニオも、4時間を越える連続歩行にギヴアップ寸前になりながら、向原の交差点まで来てしまった。中山方面に進んでバス停を見遣っても、中山駅行きのバス時刻は掲載されていたが、124系統のそれを見つけることはできなかった。横浜市内は停電を免れているものの、普段であれば間違いなく深夜営業しているであろうラーメン屋などが店仕仕舞いをしており、何時もより暗く、荒涼感が溢れていた。この足、脚の疲労で、明後日にフルマラソンをこなせるだろうか。津波の被災者よりはましだろうが、なぜこのような運命に遭ってしまったのだろうか、、、時計の針は22時を回った。鴨池大橋を越え、緑区に入った。相変わらず市営バスのiモードサイトは繋がり難く、バス時刻は不明であった。せめて、鴨居駅からのバス便にくらい、乗せてもらっても罰は当たらないと思っていた。だが、普段でも終バスが発ってしまったかくらいの時間帯である。結局、アントニオは鴨居5丁目から更に上を目指した。
そして、22時27分、遂にアントニオはゴールに辿り着いた。文字通り、自力で。新橋駅を発って約5時間半、およそ30kmの道程を歩き切った。疲労困憊はしている。今日の万歩計の歩数は47270歩となっていた。港区、品川区、目黒区、大田区、中原区、高津区、宮前区、都筑区、緑区、そして、保土ヶ谷区を自力で跨いだのである。この期に及んで明日の列車が正常に動くのか、一抹どころか十四抹の不安を抱きながら旅の最終準備をし、床に就いた。
翌日、この状況で交通手段なりが機能しているか一抹どころか四十九抹程の不安を抱えながら、目的の上越新幹線に乗るには2番電車に乗らねばならぬと、5時頃庵々を発つ。元々、日曜には能登マラソンに出場する予定であった。果たして、鴨居駅にはシャッターが下ろされており、代替手段の提示もなかった。アントニオは昨日30km walkの疲労も気にせず、すぐさま現地入りする意思があった。にも拘らず、である。この時節柄、上越新幹線を交通手段と選択していたのが敗因だろうか、でもそれが一番安かったので仕方ない。横浜線も動かない、上越新幹線も動いていないようだ。半ば予想はしていたが、ショックであった。5時台ではお得意の焼き立てパン屋も営業しておらず、一旦はスゴスゴと自宅に戻った。
部屋の掃除をしてから、金曜日、千葉の客先訪問後に帰社してやろうとしていた作業を2件ほど行うためにオフィスに出向いた。報道が進むに連れ、14日からの輪番停電実施に現実味が帯びつつあると察し、日曜日にも管理担当しているサーバを落としに出社した。
そして、第2グループ、9時20分からの停電には横浜線が動いてなければ殆どの社員がその準備のために出社することは不能であろう、各サーバマシン管理者が来れないとなると二次災害も考えられ、元々土曜北陸入り、日曜フルマラソンで月曜休暇を採ってのんびり帰宅を考えていたがツアーをキャンセルし、折角の休みであるならば18きっぷで北関東麦の旅をと画策していたが、正義感から6時半過ぎには庵々を発って14日月曜日も結局休暇を取り止めて徒歩にて出社することとなった。
前日木曜日の外出から次の週の木曜まで、ほぼ毎日2万歩以上の日歩数が続いた。なぜ?とは思わない。敢えてその理由を探すとすれば、アントニオは生きているからだ、としか言えない。生きていれば歩いてでも目的地に到達することが可能だ。金曜日の帰宅難民選手権参加者はゴール到着時刻に差があれど、皆無事であろう。無事であれば、即ち選手権優勝である。優勝できなかった方々の冥福をお祈りいたします。
(完)