ヨネクラ着地失敗からの生還

チョー不定期連載 陸道をゆく 話数知らず
不定期連載 麦道をゆく 第88話

18/9/25~19/3/3
東京マラソン2019
【ヨネクラ着地失敗からの生還】

18/10/13(土) 自宅から南大沢まで26km
18/10/20(土) 那須塩原市内10km
18/10/27(土) かしわ台駅から厚木市内7km
18/11/ 3(祝) 自宅から瀬谷駅+函南駅から反射炉18km
18/11/10(土) 小田原駅からえれんなごっそまで4km
18/11/17(土) 自宅から周回でスワン田町40km
18/12/ 1(土) 二子玉川駅からガンブリヌス19km
18/12/ 9(日) さいたま国際マラソン42.195km
18/12/15(土) 菊名駅からビールボーイ中目黒18km
18/12/22(土) 自宅からs-46 43km
18/12/28(金) 取手駅からシャトーカミヤ牛久14km
19/ 1/ 3(木) 勝沼ぶどう郷駅から石和温泉駅35km
19/ 2/ 2(土) 新丸子駅からスワン田町12km(徒歩、3.5kmのみ競歩)
19/ 2/10(日) 新横浜駅からビールボーイ中目黒19km
19/ 2/16(土) 自宅から中目黒駅28km
19/ 2/23(土) 善行駅からs-46 5km


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10年目。それまで毎年応募してきた訳ではなかったが、何度も落選を続けていた。今年はどうか、9月25日には夢を抱きながらメールを待っていたところ、待望の一通が届く。前回のフルマラソンは第一回横浜マラソンであった。あの、主催者側の距離計測ミスで記録の残されなかったあれから3年だ。気合を入れ直そう。体育の日連休までは、ビール塗れの予定で埋まっていたが、それ以降の週末には、ビール予定はゼロにはしなかったものの、練習を計画的に入れ始めた。10km、20kmと一回の距離を増やして行こうか。11月中には40km台を熟せるようにしたい。ただ、40kmの翌週は疲労回復のために20kmに抑えておくか。そう、ビール予定は活用していた。10km、20km先のゴールでは黄金清水による給水あるのみ。
10月13日は南大沢まで26km、10月20日は那須で10km、10月27日は厚木まで7km、11月3日は瀬谷までと電車乗り継ぎ後反射炉まで計18km、11月10日は風祭まで4km。そして、11月17日、比較的平坦なルート、ゴールまで自宅から直行だと少々距離が不足するので自宅周辺周回コース20kmを部分的に加え、多摩川を越え、3年振りの40km台達成。目的店の営業開始時刻よりやや早着なものの、顔見知りの店長には早めに店内に入れて貰え、USパイントグラスに満タンの水も頂きながら、走直後のゴールデンエールは我が喉越しをケンブリッジの100m走よりも速く迸った。ただ、40kmは1日分の疲労感だ。昼間と言えども。ただただビールは格別だった。生涯で一番正しい交通手段で、スワンレイクパブエド田町店に到着できた。感無量であった。
その翌週は夏頃から例年計画していた大山行脚で走りは小休止。ただ11月も末で1000m級の中国山地は積雪も多く、プチ冬山の気分を味わえた。空港は米子なので気持ちとしては渡米登山であった。そこからの帰国した翌日、一本のメールが届く。旦那が膝故障につき来月上旬のレースの代走を探していると言う。個人的には代走拒絶主義ではあったものの、割と懇意な夫妻からの依頼で、しかも申し訳ないが、東京への踏み台にさせて貰うにはお誂え、体調も悪くなければ打診してしまう。40km20kmの練習計画は少々修正すれば良いではないか。当初の練習計画では40km日ではあったが、その代走前週ともあり、少々電車でスタート地点を緩めてから国分寺まで19kmの旅とした。20km程度なら体力的に大分余裕も出てきた。因みに前週大山での給水場所名はガンバリウス、今回はガンブリヌス。ビール史上の同一人物であるのは説明不要だろう。
少々遺憾ながら、代走の前日の土曜日は出勤日、しかも下手をすると体力消耗やケガが発生しかねない環境整備日であった。体格的に体力消耗作業を依頼されがちだったが、その日ばかりは何が何でも断るつもりでいた。幸い、そのような依頼は結局受けずに済んだ。
翌日。天候は悪くない。まぁ、練習だ。何かあったら途中でギブアップでもしようか。奇しくも、との表現が適当なのか、ビールの聖地さいたまスーパーアリーナにビール以外の都合で来場とは。この地がスタート、ゴールなのである。見沼や埼玉スタジアムを廻る長い旅。後半、足切り者を収容すべく西武バスが、後方からじりじりとにじり寄って来るため、フラストレーションが途切れなかった。そう、6時間制限なれども、自分のスタートしたスタート地点から、公式スタート地点に至るまで30分もノロノロ歩きを余儀なくされ、そこで制限時間を短縮されてしまっていたのだ。もう、暫くは西武バスの顔も見たくない。先週19kmランの疲労が若干残っていたか。まぁ、プロでもないし、仕方ねぇか。それでも記録は5時間3分28秒である。勿論最盛期にはサブフォーを一度は経験したが、社会人になってホノルル2度目を走った記録とほぼ同等ではないか。前回は、前半はもっと速く、後半は歩きか走りか分別のつかない速さであった。今回は原則はゼロではないが、スピードは大幅には低下してはいない。まずまずの記録ではないか。聖地ではなかったものの、けやきひろばに数社クラフトビールのブースがあり、知り合いの居たブースで2杯いただいた。ただ、フルマラソン走破後に座るスペースもないのは許容できない。長居は無用、と、いつものTETEに向かて飲み直した次第である。
翌週は前日に会社の飲み会があったのと、そのフル直後にも拘わらず、中目黒まで18kmを割と容易く熟せた感じであった。体は何とかランナー仕様に辿り着いたようだ。その翌週12月22日には、また寄り道を加算して辻堂までフル。ゴールで美味しくビールを頂けるので体も動く。
その翌週は残念ながら閉店が決まってしまった牛久シャトーまで、前日の体力との兼ね合いで短縮を考えていたものの、結局当初の予定より少し距離を伸ばし、取手から利根川を越えて14kmの道程であった。業務では重要案件の日次報告を課せられており、北米の仕入先はクリスマス休暇で音沙汰がなくなってしまったが、10時前には一旦足を止めてスマホからメールチェックをし、残念ながら、今日も追加情報はございません、と通知の義務は果たした。俺がいくら頑張って走っても、仕入先は休暇なのは仕方ないだろう。日本企業のユーザにはなかなか受け入れていただけないのが残念ではあるが。お客さんからの宿題回答を得られるのは年明けだろう。私はやれるだけのことはやった。文句があるなら、、、止めておこう。閉店日ともあり、ビール関係者多数、やんやの賑わいであった。牛久ブルワリー、残念である。
クリスマス休暇による未更新が続いた宿題の回答も、2日には届いていたので、本業始業日前とは言え、虫の知らせは特に感じなかったが、回答を何とか翻訳してお客さんにはメールをしていた。
年明け直後は、元旦から営業しているOutsiderの直営店がゴールである。以前のトイレ迷走地獄を踏まえ、トイレの探し易い勝沼ぶどう郷駅からスタートした。出発前にスマホ充電未遂のまま山梨県まで来てしまい、しかも今日初のルートである。事前にコースマップは何度も眺めてはいたものの、矢張り曲がるべき交差点を間違えてしまい、山梨市駅付近からだいぶ走った後に山梨市駅付近に戻って来てしまった次第だ。嗚呼、Google Map先生の有難みよ。後は道路案内板しか頼れない。無駄骨ダメージは嵩んだものの、初詣のつもりで恵林寺にだけは何とか辿り着き、そこからR141を南西へと下った。今日もフルのつもりだったが石和温泉駅でギブアップ、走行距離は36kmくらいか。2駅電車に揺られてから甲府で給水とした。
今年はその翌日も休みとなれば現場に行かざるを得ないとイッテンヨン新日本プロレス東京ドーム大会に赴いた。席がリングより離れており、リングを直接見るより、リング上部に設置されたオーロラビジョンの方が大きく選手を映しているのが悩ましい。これならテレビで見た方が、、、まぁこれがイッテンヨンなのだ。トランキーロ、あっせんなよ。
そして、デスティーノ。
気が付いたら入院していた。しかも心電図センサー3つ付で。従来の入院経験より少々派手なアイテムと共に、ベッドに横たわっていた。何処の病院だろう。何故?勿論、勤務先への迷惑も心配ではあったが、これで10年目の正直、東京マラソンも御破算になるのかと心配になった。否、それより、通常生活に戻れないこともあるのではないか。食事も数日完食に至らなかったため、24時間点滴のお世話になっていた。トイレに行くにも点滴台車と一緒である。トイレへ行くこと自体も大変だった。特に大用は。踏ん張ったら鼻血が吹き出してしまったり。
ただその週の後半には何とか完食できるようになった。翌週月曜から病室が変わった。何でも、それまではICU、即ち集中治療室に入れられていたと言う。そんなに凄い場所なのか、後で周囲に聞けば、周りの方が騒がしい。最も個人的にももう暫くはあの部屋には戻りたくはないと感じてはいたが、そんなに凄い場所だったのか。病室も変わってからは点滴ともお別れであった。不足していた塩分補給のため、塩そのものを毎食分渡されてしまった。また、体の打ち所の問題か、食事をするにもベッドの上で体育座りするだけでも尻周辺が痛んだ。1日で最大6万5千歩を刻めた猛歩者の様なのか、これが。2週間前までのランナーの体は何処へ行ってしまったのか。
入院2週目半ばからリハビリが始まった。車椅子での院内移動だ。20年前のバイク事故で左膝後十字靱帯損傷時は人に押して貰っていたが、今回は自走もできるようになった。そしてリハビリルーム。巨大病院である。患者が多い。リハビリ看護師の数も半端ない。合計100人はこの部屋に居るのでは?ただ、看護師を除くと、自分が1番目か2番目くらいに健康体なのではないかと錯覚した。否、錯覚でなく、自覚、事実なのだろう。リハビリメニューは今一つ自分に合っていないように感じた。うーん、これで普通に歩けるように戻るのか。一抹の不安は過る。メニューとしてのリハビリの他、入院病棟内同一フロアを1周してみたが、約30分、それだけで草臥れた。億歩計が必要と見られるアントニオの様なのか。ただ、徐々に体調は戻ってきている感じだ。意味不明の発熱はあったが。病室には飽きてきた。最も美形の看護師も多かったのだが。美形の看護師の存在が、患者の退院欲を蝕んではいないか。またそれもデスティーノ。病棟4方角に展望室があり、アントニオ部屋の隣の展望室からは山が見えるのだが。方角の残念な展望室の先には第2京浜等の喧騒が広がってしまっていた。リハビリの進み具合は心配だったが、主治医は金曜には退院できるぞ!威勢のあるコメントだった。ビール飲んで良いか?運動して良いか?献血して良いか?ビールは程々に、それ以外は問題ないとんこ回答だった。ならば。腹は決まった。
自宅への送りも含め両親には散々世話になった。ただ、カーナビがついていても運転の挙動には残念に感じる場面が散見された。自宅に戻ってから買い出しに行くか?との誘いは断った。難しい判断ではあるが、せっかく退院したのに余計な神経は使えなかった。自分でやる。その方が身のためだ。自分の体は自分が一番知っているのだ。必要な買い出しに行ってみた。歩いたり程度であれば何とかなりそうだ。
翌土曜、そう、前夜は自宅でリハビリとして少し飲んでみた。特に問題はなかったので東京ドームに赴く。元々ボランティアのつもりだったが、この有様で手伝いは迷惑だろうが、挨拶はしたい。なお、首にはコルセットである。ふるさと祭りであり、ビアフェスではないが、その分、適度な数のブースでクラフトビールも楽しめる。知り合いの居るブースには寄った、寄った。首のコルセットの理由も説明した。皆さんには沢山心配いただいてしまった。幾ブースの方からは「生きてた記念だ!」と無償で杯をいただいてしまった。矢張り、人に活かされているのだ。さすがに飲むペースは以前より落ちたが、知り合いに会うのは何よりのリハビリである。百個の薬より一杯の樽生ビールである。
月末に経過診察があった。診察の前に、依頼していた診断書が出来上がったようなので、先ずは受付に赴く。愕然とした。外傷性くも膜下出血、後頭骨骨折、鼻骨骨折、、、この病院には歯科がないので、折れた上の歯2本については記載がないが、これだけを揃えてしまったのか。。。どう治すんだよ。。。へ?実際はどれも治りかかっているのか?しかし、俺も漸くプロレスラー並みの怪我ができるようになったのか。しかも周りは挙って、退院が早い!とか。ひょっとして、回復力もレスラー並みか?その診断名をネットで検索すれば様々な記述を確認することができるだろう。ただ、この診断名から前向きな文章を探し出せることは不可能に近いのではなかろうか。検索無用だ。知らぬが仏。否、俺の体は俺が一番知っているのだ。普段通りを貫けば良い。それでコケたらその時考えろ。その診断名の重さと気持ちは反比例し、至って平常心であった。もしや、3月3日に間に合うのではないか。誰かに相談すれば止めるだろう。リミッターをかけるだろう。だが、俺の体は俺に聞け。医者からはコルセット解除指令も出た。道は前に拓けていた。
まずは歩きから始めようか。その診断を受けて次の週末、ゴールは今シーズン初40km超達成に寄与してくれた田町店である。他の選択肢はない。新丸子で東横線を降り、多摩川を渡る。前に進むのだ。進めるではないか?意外と!正しいゴール設定なのだ。動機は漲っている。滾っている。中原街道からR1へ抜け、五反田駅付近を伺う。時計を見やると田町店開店時刻まであと30分しかない。開店時刻に間に合わなくても損することもなさそうだが、焦った。逸る気持ちが蘇ったのだ。動機は沸騰している。高輪方面まで登りだったが我が脚は競歩し始めた。滾っているのだ。我が脚が、事故前を思い出している。気持ちが思い出している。進め。前を阻む者を蹴散らせ。高輪から田町への下り途上、工事個所では警備員の制止も振り切ってしまっていた。もう止められない。苦いホップの匂い。今でもビールは私の光。脳裏でリフレインする米津玄師の旋律。3月3日に近づけ直せていると勝手に思う。1月末でコルセットからは解放されている。ただ、退院直後の不安定感くらいにしか思っていなかった無嗅覚感は、手術も出来ず治せないと主治医は言ったのだ。幸い味覚は失われていない。俺を今でも不味いビールでは騙せない。スワン田町の土曜限定ランチにビール。ただ憩うのみ。エンジンはかかってきたギアはセカンドまで上げられた。12km歩きの予定がうち3.5km程競歩であった。
2月10日。メンタルな潤滑油は滾っている。もう止められはしまい。ただ、ランナーズギアに中々上がらなかったものの、走行を開始してから7kmくらいを過ぎると、体全体がシフトチェンジを思い出したのだ。多摩川を走って越えちゃうぞ。ただ、少しスピードを上げると、心電図センサー音の耳鳴りが蘇ってしまうのだ。ううむ。まぁ、1月6日を経験した者の宿命だろう。何処まで行けるのか。何処まで事故前を体が思い出せるのか。何が無理なのか。してはいけないのか。イッテンロク後の19kmラン。3月3日は近づいているのか。未だ不安は否めなかった。
ふとFacebookを眺めていると、献血feelで特典があるらしい。やれるかオィ。行けるかオィ。もう19kmも走れる体なのだ。イッテンロクに予約していた献血はキャンセル通知さえできなかった。厚木の仇はfeelで返せ。献血前問診では嘘はつけないのでイッテンロクを語らざるを得なかった。案の定、医者との間で小競り合いとなった。主治医のOKは出ているし、ジョギングもできる身なのだ。ただ、阿呆なことに前日の飲みがやや体調に悪さをし、献血途中でギブアップもありと密かに思いながら、表向きはレスラー魂を貫いた。この血を抜けばどうなるものか。危ぶむなかれ。危ぶめばサンテンサンはなし。抜き出せばその一液が道となり、その一液が道となる。迷わず抜けよ。抜けば解るさ。行くぞ〜確かに調子は微妙であった。ただ、高校生の時、「血管が細いわね」と言われて献血後に貧血を起こしてから30年、もはや血流は5G世代、ベッドに据え付けられているiPadの中、これから動かそうと思ったアプリが見つかった頃、ゴングが鳴った。いや、これからアプリ開こうと思ったのだが、前回より早く400ccを流出させてしまったのである。イッテンロクを経験しても献血ブロードバンドは健在だったのだ。
厚木の仇をfeelで返して数日後の2月16日、長距離を試せる最後の日を迎えた。最後?当然3月3日を照準としたらの話だ。何処を目指すべきか。TETEを判り易いルートで少し遠回りすればフル相当になるのではないか。行けるかオィ。やれるかオィ。鍛え直しか。思い出しか。頑張った、約28kmは。何故ギブアップしたのか。後半やや失速し、TETEの開店時間に間に合わない、それはいけないと、電車の駅が見えるあたりで歩みを止めてしまった。思い出せたのは28kmまでか。あと2週間である。イッテンロクを経験した者としては上出来ではないか。サンテンサンを過ぎる前から上出来と言うなよ。TETEでの飲食は何時も通り申し分なかった。
そしてサンテンサンの一週間前は、辻堂の店の周年記念であり、天気も良く、5km強で練習を終えた。
前々日金曜の時点での天気予報は曇りであった。土曜日は平穏に過ごし、天気予報を見損なったのが悔やまれた。否、見てしまった後の対応は果たしてプラスに働いてくれただろうか。
当日朝、自宅から最寄り駅まで歩く途中で降り出してしまった。やや、軽量かつ小さめの折り畳みの傘しか持参していなかった。新宿に到着。両足の靴は恐れを予知していなかった。出発前の都庁付近の公園で、既に泥が跳ね返った。レインコート、レインウェアもない。山用GOATEXのレインウェアは2年前、前穂高岳に奉納してしまったのである。ウィンドブレーカーは、イッテンロクに着用いしており、事故を物語る破れ具合だが、これくらいしか雨除け防具を持参していなかった。傘を差したまま走るか。うーん、迷惑だろうに。
ウィンドブレーカーのフードはぶかぶかで、縛る紐もないシロモノであった。それでもないよりはマシだ。両手でフードが靡き過ぎないように引っ張りながら走らざるを得なかった。ただ、結果論として、それで良かったのかもしれない。いくらでも棄権理由を並べることはできたのであったから。ただ、どれも決め手とはならなかった。フードの靡きにイライラは募るが、やがてイライラも諦めた。走り難いと思っているのは俺だけではなかろう。このフード靡きによるイライラが、他の棄権理由を葬り去る程続いたのが逆に奏功とも言えなくもなかったのだが。ただ少なからず余裕もあった。マラソンの沿道で有り勝ちなヤングマンの演奏は今回も聴けたが、YMCAのポージングに、晦日の晩に嫌悪イメージから一気に大逆転してノリノリ感を覚えたあの、恋するフォーチュンクッキーの振りをミックスさせてみてはどうか、体が自然と動いたのである。給食所は軒並み焼野原となっていた。ラン用プチDバッグにそれなりの補給食は携えていたのでダメージは特にはない。
それでも、事故前の調子を思い出せたスピードで走れたのは28kmくらいまでであった。鬼門?それ以降は、スピードが出せなかった。しかし、俺には貯金があった。残りの区間を全て歩いても制限の7時間にひっかからないぞ。12月に散々恐怖として迫ってきた西武バスめ、思い知れ。こちらははとバスだが、お主の世話にもならねぇぞ。また棄権の選択肢が消えた。寒い。しかし、このずぶ濡れに対して着替えも用意していない。そんなことはどうでも良い。進めアントニオ。歩みを止めるな。10年目の正直だ。ここで棄権したら、あの方のレベルと同じだ。俺はレェ〜ヴェルが違うんだよコノヤロー!イッテンヨンは見るだけだったがイッテンロクにも当たったんだぞコノヤロー!皇居は遠いぞコノヤロー!此処でギブアップしたら普通の人だ。東京でギブアップできるかコノヤロー!命賭けてんだぞコノヤロー!ICUから生還したんだぞコノヤロー!
小走り程度のスピードしかだせなかった、もう。雨は降り止まない。だが、皇居は何時しか近付いていた。此処までやらなくても良かったかも知れない。も少し楽な道はあったかも知れない。ただ、東京だ。止まる訳にはいかない。まともなレインウェアを来ていたらどうなっただろうか。ハタマタ、イッテンロクのヨネクラ着地失敗を経験していなければ、どうなっていただろうか。あの事件、否、事故だが、なかったとしても、別の棄権選択肢が立ちはだかっていたかもしれない。通気の良いレインウェアであれば思考が幾分安定してまた別の脅威に蝕まれていたかもしれない。退院後、本走参加については特に心配性な知人には伏せていた。此処で棄権したら、ほら言わんこったないだろう。そんな方々をぎゃふんと言わせなければならないのだ。
マロニエ通りは長かった。景色があまり変わらないような。だが、やがてゴールが見えて来た。 果たして今までしてきたことが正しかったのか。正しくないことも散々やってしまっていた。 ただ、ゴールは目前だ。
歩みを止めなかった者の勝ちだ。止めるのを避けてきた者の勝ちだ。大会のスタートから辛うじて6時間は切れた。イッテンロクからICUで1週間滞在した者部門で堂々優勝だろう。聞くところによれば、あのマラソンの日本記録保持者、大迫氏が棄権した?俺はこれで東京を引退すれば、彼は永遠に私に勝てなかったことになる。勝ってしまったよ。しかし、雨は降り止まない。皇居の周囲に雨宿りできる場所がない。なけなしの着替えもどきと荷物を整理し、日比谷駅から千代田線に乗った。代々木上原にも新たなゴールは存在した。苦いホップの匂い。ん?ホップの匂いは未だ嗅覚未遂だった。今でも貴方は私の光。
(完)

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付録:

陸旅アドバイス
・出場当選してからは矢張り事故には遭わない方が望ましい。
・天気予報は前日きちんと確認するのが望ましい。
・途中の給食できるものを持参するのが望ましい、空腹を覚えずにフルを完走できなければ。